採用看護師の氷の心を解放させた氷の病棟女子のストーリー

氷の悪霊病棟女子

転職した病棟は、他病棟の看護師や研修医からは、看護師がきつい、怖いと噂されていた。

その病棟は私が働きたいと希望した病棟であった。看護学生の頃、急性期の看護を学ぶために実習に行った病棟である。

「氷の病棟」と噂されているのを知ったのは、働き始めてからのことである。

確かに、先輩たちは病棟師長を筆頭とし皆強烈だった。伝説的に今でも語り継がれている先輩もいる。しかし、1999年に入職してから、今も私が思い出す風景や場面は、どういうわけかその当時のことばかりである。

その頃の先輩たちの中には、未だに私の先輩として示唆を与えてくれている人もいる。

本当の看護チームの一員になる

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悪霊病棟より引用

入職した頃の私は、後日わかったことであるが、「何を考えているかわからない」と先輩たちに言われていたそうだ。

目立つてミスをする同期の仲間に隠れ、せつなく業務をこなしていく。今で言うならKY(空気を読めない)の逆だったらしい。確かに私はどこかよそよそしく、自分の病棟でありながらも怒られている同期を横目に羨ましくもあり、自分は先輩に見てもらえているのかという不安を抱えていた。

そんな私も、あるインシデントをきっかけに先輩たちの前で号泣したことがあった。

「あんたも泣けるんだ」と言った先輩の言葉を覚えている。入職をしてからそれまで立ち止まることもなく緊張をしたまま突き進んできた私は、その場において一気に緊張の糸がほどけ、不安に思っていた気持ちを吐き出すことができた気持ちのほうが大きかった。

そのことがきっかけで、なんだか病棟の一員として片足を突っ込むことができたと思う。

知らぬうちに育てられていた

当時のチームは、「次のシフトの看護師が困らないようなスムーズな業務」で次のシフトに引きつぐことを大切にしていた。

片づけができていないと申し送りは聞いてもらえない。患者の問題点がわからないと患者を受けもたせてもらえない。スパルタ方式の教育の中、同期の仲間同士で支え合い、時に先輩の愚痴をこぼしながら頑張った。

不思議であるが、それでも辞めたいという発想には至らなかった。次はどうすればよいか考え、食いついていくようになる。厳しいと思う反面、こんな手のかかる後輩を見てくれている先輩たち、患者に対する熱い思い、やさしさを知ると、先輩たちの恐ろしき・怖さは愛情の鞭に変わっていった。

医師からも看護師の働きが一目置かれていたのではないかと思う。

看護ケアには絶対に手を抜かない

忙しいけれど、決してケアには手を抜かない。手術が終わってシャンデリアのような点滴・機器に囲まれた患者が帰ってくる。協力しなければ間に合わない。終わらない。その都度、整理整頓し、病態アセスメント、プライマリ意識、気がつけばチームワークの大切さは、自然と頭と体にしみこんでいた。

毎年、病棟師長との面接は泣いていた。

病棟師長は私を見ているということを毎年気づかされた。

実は「氷の病棟」は「あたたかい病棟」だったのだ。そのことに気がついたのは、後輩ができ、病棟再編成により病棟が解散してからのことだった。

人員不足の中から得られたものは実践共同体

研修センターから臨床に復帰した私は、患者を「線」でとらえていく必要性を感じ、腎病棟で働くことにした。

まさに患者と病い・生活が密接し、看護のケア要素が大いに発揮されるべき病棟であった。ところが、看護師が辞める、異動の希望者が続出するのである。

若返りをしてしまった病棟では、要領も得ず、専門性も未発達な状態であり、毎日が忙しかった。主任としての行動よりも、メンバー業務に追われる毎日であり、へトヘトだった。

でも、私たちの中では譲れないことがあった。

患者の清潔度は病棟の看護の質である

患者をきれいにすることである。患者の清潔度は、その病棟の看護の質を表すものと私は考えている。

毎日忙しいけれど、いつのまにか患者に対するケアは手を抜かない風土が出来上がっていた。おそらく、自然と患者の清潔を保持することの必要性が先輩たちから刷り込まれていたのだろう。

人員不足の中でとても大変だったけれど、ケアや患者へのかかわりを通して、今では目に見えないチームワークが成り立っていたと感じられる。「実践共同体」という言葉を院内研修「概念化コース」の講義で聞いた時、「価値を共有する仲間」、その言葉の意味は、「わが病棟での看護の一つ」だったのではないかと思った。

看護するうえで避けられないテーマは「死」

臨床指導者学習会での「概念化レポート」の記述をきっかけに思い出した患者がいる。

Sさん・70歳代・男性・肺がん。今でも妻や息子さんの顔が浮かんでくる。確か、Sさんとはじめて出会ったのは、看護師二年目ぐらいの時だった。

抗がん剤による治療のために、入退院をくり返すSさん。前回の入院時から繊細な人だなというイメージをSさんに抱いていたが、Sさんから、患者が治療に臨む姿勢、病いに対する強い思いを知ることができた。

看護師四年目ぐらいの時に亡くなられたのだが、何回もくり返される入院生活の中で、私とSさん、家族との関係性が形成されていた。出版関連の仕事に携わっていたSさんは、「あなたたち看護師さんのことを本に書きたい」と言っていた。

また、Sさんの死亡確認の場で、涙がこぼれ、嗚咽が止まらない私に、息子さんが「看護師さんもつらいよなあ」と肩をたたいてくれた。家族ではないけれど、健康の回復という目標をSさん・家族と一緒に願っていた。

入院中という限られた時間の中でのかかわりではあったが、闘病を共に支えてきた一員としての自覚、そのことをSさん、家族が認めていてくれたからこそ共有できた時間であった。

当時もSさんから学んだことはたくさんあるが、このように、十年近くも時をおいて当時のかかわりを振り返ることによって、今もSさんから学ばせてもらっていることに気がつく。

まとめ 母の死

母の死は、どこか遠く、もっと先に起こる出来事と思っていた。

しかし、今は名前を呼んでも返事がない。なぜなのだろう。

母が亡くなって四年の月日が流れる今、以前あった空虚感が変化している。当初はどこか長期旅行に行っているのではないかという錯覚に陥っていたが、今は母がいないという事実を受け入れてきている。

身体という物体、精神という目に見えないものが亡くなっても、私の記憶の中に母が存在しているのである。

そう思えるようになってきたのはごく最近である。

亡き母との思い出

母の死は、身をもって、さまざまな思いを教えてくれた。避けられない、人間に定められた運命。どのような形で訪れるかはそれぞれであるが、死を病院で迎える患者、その家族に対して、今なら真摯に受け止め看護師として死に逝く人への看護が少しはできるようになったのではないか、と思っている。

死をどうとらえるかによって、今を生きる患者とどう対峙するかも左右されてくるように思える。

S氏へのかかわりや母の死を通して学んだ死生観。今までは死に逝く患者を前に、怖くて氷の病棟の扉をたたけず、扉の前でウロウロしていた。

できれば避けて通りたい思いのほうが強かった。

しかし、今は、これまでより怖くとも勇気をだして氷の病棟の入り口をたたき、そこに向かっていくことができるようになった。

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